1: 名無しさん 投稿日:2016/01/31(日) 19:26:16.54 ID:CAP
登山者「落ちるなら富山へ」
一流登山家も多くの命を落とす県内の北アルプス立山・剱岳などで遭難救助に当たる県警山岳警備隊が発足から半世紀を迎え、記念式典が富山市で三十日にあった。関係者は日本屈指の救助技術を誇る集団へ成長した歩みをたどり、山岳救助への決意を新たにした。
前身の山岳救助隊ができたのは一九五九(昭和三十四)年。隊員は機動隊員が中心の十五人だった。
救助隊時代から所属し、警備隊長を務めた谷口さん(77)によると、昭和三十年代半ばは、登れば初登のパイオニアワークの時代。
毎年のように悲惨な遭難が起き、社会問題になったことが警備隊発足のきっかけになった。
中でも、「三八豪雪」の六三年にあった愛知大生全十三人の薬師岳大量遭難は歴史に残る悲劇。
その二年後の六五年三月、組織改編で警備隊が誕生した。隊員も二十五人に増えたが、当時は山の知識、技術、経験に乏しく、十分な予算もない。登山者からは「貧乏隊」とからかわれたという。
救助の中心は立山一帯を知り尽くした地元の山岳ガイドで、隊員は補助的な役割にとどまっていた。それが六九年一月に剣岳周辺で十五パーティーの八十一人が遭難し十九人が死亡、ガイドが二重遭難する事態が発生。
「民間人を危険にさらすわけにはいかない」と、警察主体の体制へ切り替わった。
全国に例のない山岳警備派出所を整備し、年間常駐体制をとり、最新鋭のヘリコプターを導入した。冬に五十キロの荷物を背負って山に登るなど厳しい訓練を実施。救助体制や救助道具を学ぶため欧州遠征も重ね、遭難者を背負って搬送する装置などを取り入れた。
これまで三人の隊員が命を落としている。遭難者の遺体搬送中に崩れてきたブロックの下敷きになったり、訓練中に雪崩に巻き込まれたりした。
「警備隊に入ったら、死を覚悟せよ。できないならやめろ」。〇八年まで約十年間隊長を務めた椙田さん(68)は、若い隊員らにそう言ってきた。
技術を磨くには、危険な場所での実戦的訓練が欠かせないからだ。
苦難を乗り越え着実に実力をつけ、日本一まで成長した警備隊。いつしか登山者の間では「落ちるなら富山側へ」が“定説”に。命を助けた登山者や死亡した登山者の家族からの礼状が続々と届き、隊員の励みになっている。県外から警備隊を目指す人も増え、今では二十八人中十九人が県外出身者だ。
谷口さんは、ヘリによる救助ができるようになった今でも「救助の基本は担いで歩くこと。担がれた人が絶対大丈夫だという安心感を与えられるようにならないと」と現役に伝授。高瀬隊長は「私たちの取り組みが広く登山者からも基本とされるよう努力を続けることが今後の使命と考えている」と意欲を見せた。
中日新聞 2016年1月31日
http://www.chunichi.co.jp/article/toyama/20160131/CK2016013102000036.html?ref=hourly
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